last updated: 2022.12.23
岡山県と言えば桃太郎、桃太郎と言えば…ジーンズ。
倉敷市の先端の町、児島。町に降り立つと、世界は藍色、インディゴのブルーでいっぱいです。至る所にジーンズショップが立ち並び、店舗の看板までジーンズの色合いにあふれています。児島はなぜ、ジーンズの聖地になったのか?それには、偶然とも必然とも言える理由がありました。
Ⅰ. ピンチをチャンスに 米が難しいから綿を作った
児島は以前、岡山県本土と陸続きではなく、瀬戸内海に浮かぶ小さな島でした。干拓によって陸続きになり、倉敷市の一部になりました。江戸時代のことです。
干拓地は海だったので塩分が多く、稲作には向きません。代わりに、塩分に強い綿花栽培が盛んになったのです。
岡山県は、瀬戸内海に面した児島に対して、内陸部に井原という地区があります。井原地区も綿花栽培が盛ん。加えて、藍の栽培と藍染めも行われていました。江戸時代から井原の藍染は国内に広まり、大正時代には欧米でも人気になったのです。
Ⅱ. もともとは学生服の製造日本一だった
綿花の栽培で、児島は繊維産業が発達します。明治時代には民間初の紡績所ができ、大量の足袋が作られました。当時、日本一の生産量です。
その後も、学生服や畳のふちなどが生産され、繊維関連の会社が次々と児島に進出しました。紡績や織物、染色、ボタン製造といった業種です。やがて学生服作りでも、岡山県は日本一のシェアを誇るようになりました。
Ⅲ. 時代の転機 学生服からデニム製造へ
戦後になると、学生服の生地は、綿から合成繊維に変化していきました。繊維業界が生き残りをかけて、次の一手を模索した結果がデニム製造だったのです。
学生服は耐久性がポイント。中学や高校で3年間着続けられる、丈夫な学生服を日本一製造してきたノウハウは、同じく強度の必要なデニム製造に活用できるものでした
繊維産業の主軸が、学生服からジーンズへ。国産ジーンズの第1号が誕生したのは、1964年の東京オリンピックの頃。アメリカからの輸入デニム生地を縫製したのが始まりです。その後、国産デニム生地も開発され、ジーンズの生産はますます盛んになっていきました。
現在、国産ジーンズのうち約4割は、児島で作られています。ちなみに「国産」とは、日本国内で最終縫製したものを言います。生地やボタンが例え外国製でも、日本で縫製を仕上げたら「Made in Japan」。国産ジーンズになるのです。
デニムの染料インディゴは、染色に高い技術が必要です。日本人の繊細な感覚、ベテランの職人さんの巧みな技が、児島デニムの絶妙な風合いを生み出しています。
岡山県のデニム製造は、原料の綿花栽培から紡績、染色、縫製に加工・仕上げまでワンストップ。そんな条件も功を奏し、児島はジーンズの聖地として今や世界的にも有名になりました。
児島では、ジーンズ発祥の地を全国に発信しながら、飲食店や雑貨店も誘致。民間と自治体が協力して、地元の商店街を盛り上げています。
地元のジーンズメーカーが製造したジーンズを、ジーンズストリートに集めて販売する。全国から訪れた人々が児島でジーンズを買い、商店街の飲食店や雑貨店にも足を運ぶ。古き良き商店街の雰囲気や、旧邸宅が醸し出す味わい。見上げると、まるで電線にジーンズを干したかのようにたなびく、粋なディスプレイもあります。まさに、見て歩いて、買って楽しいストリートです。
ゴールデンウィークに入る4月末には「稲妻デニムフェス」として、普段は手に入りにくい商品やサンプルが並ぶイベントも。ぜひ一度、児島に足を運んでみてください。
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